初代田代一郎寺は明治時代の代表的な陶器商人であり、弟の松村久介と協力して、尾張の陶磁器、つまり瀬戸焼と美濃焼の輸出を推進しました。名古屋の松村久介は瀬戸の名工加藤右衛門(別名甘城園)に染色台座の製作を依頼し、一郎寺田代(横浜田代商店)が横浜でこの染色錦花と大きな碗を用いました。鳥類は日本に輸出されます。